宗祖としての親鸞聖人に遇う 古田和弘

2006年03月01日

 この国では、親鸞聖人ほど、多くの人びとに敬愛されている仏教者はおられないのではないでしょうか。ひところ「親鸞ブーム」という言葉をしばしば耳にすることがありましたが、それは、親鸞聖人に対する関心の高さを物語っていると思うのです。

 親鸞聖人についての関心の持ち方はさまざまだと思います。どのような関心でもよいのでしょうが、一つ確かめておかなければならないことがあると思います。それは親鸞聖人が「宗祖」であるということです。

 たとえば、文化人とか教養人とかいわれる人びとの間に、聖人に対する敬愛の心情が根強くみられます。これらの人びとは、まれに見る重厚な思索によって、深いところで人間を凝視された親鸞聖人の人間像を敬っておられるのであろうと思います。この場合、多くは『歎異抄』を通して親鸞聖人に触れておられるのだと思います。

 『歎異抄』に伝えられている聖人のお言葉には、確かに、人びとの内奥に響く魅力があると思います。ですから、親鸞聖人について書かれた書物もたくさん出版され、愛読もされてきました。そのこと自体には特に問題があるわけではありません。

 しかし、はっきりさせておかなければならないことは、このようにして敬愛されている親鸞聖人は、「宗祖」なのかどうかということです。自戒を込めてあえて厳しい言い方をするならば、それは、知的関心の対象であったり、ある種の感性が向けられる対象であったりするのではないかということです。

 「宗祖」というのは、一宗を開かれた祖師というだけではありますまい。もちろんそれもあるでしょうが、何よりも、後の世の私のような者のために、まこと(真)のみむね(宗)をいただくよう願ってくださっているお方なのです。「まことのみむね」とは、仏教の肝心かなめということで、それが「お念仏」による私の生活だと教えておられるのが「宗祖としての親鸞聖人」なのです。

 親鸞聖人は、ご自身のことについて、「雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』「後序」)と、歓喜に満ちたお言葉を残しておられます。その親鸞聖人は、私たちに厳しいけれども暖かい願いの眼差しを向けてくださっているのです。「畢竟依を帰命せよ」(『和讃』)と詠われて、私たちが生きるための最後(畢)の最後(竟)の依りどころを明らかにするよう願っておられるのです。そして「念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)と教えておられます。また「如来の弘誓願を聞信する」(『正信偈』)ことの大切さ、ありがたさを教えておられます。

 知性や感性は乏しいだろうけれども、親鸞聖人が呼びかけてくださっているお言葉を実直に受け止め、願ってくださっているお心に素直に従って、聖人のようにお念仏を喜べるような身になりたいと、そのことを御遠忌も目前にして自らに確かめること、それが「宗祖としての親鸞聖人」にお遇いすることであると思うのです。

九州大谷短期大学 学長 古田和弘
教区報『遇我遇仏』3号