宗祖としての親鸞聖人に遇う 大江憲成

2005年12月01日

 その昔、初めて東本願寺の御影堂にお参りしたときのことでした。想像を超えた大きなお堂の奧、中央に、親鸞聖人のお木像がご安置されていました。驚いたことには、お木像の親鸞聖人が、お参りしている私に向かって手を合わせるかのように対座されていました。

 私は聖人に手を合わされるような値うちのある人間ではないのに何故なのだろうと思い、そのことを父に尋ねてみると「そりゃお前、ご開山はお前に向かって、お念仏に出会って下さいと願ってくださっとるんじゃ」と答えてくれました。忘れられない言葉です。

 願ってくださっている親鸞聖人・・・・・。

 七百年も前になくなった方が現在もなおこの私を願ってくださっていた。しかも見も知らずの私に対してなのです。私にだけではありません。多くの方々に対して願ってくださっていたのです。このことは私にとって大変不思議なことでした。

 その時の私は、願いに出遇うとはどういうことなのか、解っていなかったのです。

 しかし、諸先生に導かれつつ聖人のお言葉に触れてまいりますと、聖人が生きられた「仏様のお心」(願心)に出遇うとは一体どういうことなのか、教えられてまいりました。

 「如来の智慧海は、深広にして涯底なし。

  二乗の測るところにあらず。

  唯仏のみ独り明らかに了りたまえり」

     (『大無量寿経』・真宗聖典五〇頁)

 阿弥陀様の智慧であり願いの世界は海のように深く広く、行き止まりや底は無い。師のことばを鵜呑みにしてそのことばに居座ってしまったり(声聞乗)、師に出会おうともせずに自分の思いこみの宗教観にまどろむありかた(縁覚乗)、これは、人が道を求め学ぶときに気づかずして行き詰まる閉ざされたあり方で、「二乗」とも小乗ともといわれますが、このあり方では阿弥陀様の智慧の世界、願いの世界の深さ、広さを測ることは出来ない。ただそのことに気づく者、「仏」のみが明らかに覚ることができる、というのです。

 どういうことなのでしょう。海の深さは、いかに測っても海底にとどかないと知らされるときに、その深さにうなずくことが出来るように、仏様の願心の深さや広さは、いかに人知を尽くしても至りとどかないと知らされるとき、その限りなさに頭が下がります。

 限りない願心に出遇うとは私の学びの狭さに気づかされることと別ではありません。

 つまり私たちをして、自分の居座りやまどろみの愚かさに気づかさせ、いよいよ出会っていく学びに立たせて下さるのが願心の世界であります。

 その願心に出会い、その願心に呼び覚まされながら生き、その願心を現在もなお私たちに語りかけてやまない方が「仏」であり「宗祖」なのです。

 宗祖親鸞聖人は七五〇年前に亡くなられた過去の方ですが、私たちがいよいよ出遇っていく未来の方です。願心として未来から現在に呼びかけておられる方、「今ここに当来している方」なのです。私はさらにその方の呼びかけに出遇っていきたいと思います。人生に「涯底」という答えはありません。ただ尋ねていく世界の確かさを喜びたいと思います。

中津組觀定寺住職/九州大谷短期大学教授 大江憲成
教区報『遇我遇仏』2号