「あなたと出あいたい、今、共に」 村上 匡一

2006年09月01日

 《あなたと出あいたい》― まず、このことばに耳を傾けたい。そこに何が聞こえてくるだろうか。

 ある時、切迫した金銭的いさかいの中で「いままでわたしは誰にも愛されなかった。愛が欲しい」と、突然叫ぶのを聞いた。今でも不思議な感覚を覚えるのだが、それは確かなこと、当人の真実(ほんとう)の声だったのだろうか。ずっと心に残っている。

 物質的に満たされたはずの社会で、どこかに満たされない思いを抱いていて、その空虚さを何で埋めたらよいのか、わからなくて、外側のモノで埋めようとしている。一方、わたし自身は確かなもの、一生をかけて悔いのないものに出あっているだろうか。真に語り合える友を得ているだろうか。

 現代の日本では、個人の人権を重んじるということになっている。しかし、それがどれほど形式的で内容のないものであるか。エゴイズムも人権で、内実が吟味されることなく、法律や表面のみの社会的善悪の範疇で、平板化され処理されてしまう。

 人間的な出来事が、社会の中ではモノとなる。出来事が事件としてメディアで報道され、話題として消費されてしまう。一連の司法の手続きも権力構造をもっていて、たいへん形式的だ。多くの事件や犯罪を他人事としているが、わたしたちは生きることが空洞化してしまった時代社会を今まさに生きている。しかもわざとかどうか、気づかないふりをして、きわめて個人的に生きている。

 現代という時代の中で、過去のお手本が通用しなくなり、みんな手探りだ。寺院に暮らすものも例外ではない。むしろ、迷っているのに迷えないという二重の迷妄を生きている。

 自分を外(ブランド、地位、名誉、財産など)に、あるいは他者に求めれば求めるほど、対立を生み、自分から遠ざかる。単純な道理である。表面では強がってみたり、信念があるかのようによそおってみたり、立派そうにしているけれど、ほんとうにそうなのだろうか。そうしたがる煩悩があるだけではないだろうか。

 生きていくということは、残念ながら、対立の悲しみを味わうことだと思う。でも、ほんとうは、対立をのぞんではいないだろう。対立すればするほど、写真の陰画のように、こころは「あなたと出あいたい」という悲痛な叫びをあげている。強がりを言うのは、悲しみに満ちたこころの裏がえしなのだ。

 あちこちから聞こえる悲しみの声に耳を傾けてみると、「あなたと出あいたい」「ほんとうに満ち足りたい」という願いは、どこから来るのだろうかと問うてみたくなる。

 《あなたにあえてほんとうによかった。うれしくって、うれしくって、ことばにならない》。このことばが、わたしの家族、友人、さまざまなグループの党派性を超えて、無条件に語れるであろうか。それが現代のわたしたちの課題であるような気がしてならない。

京都組 念信寺 住職 村上 匡一
教区報『遇我遇仏』5号