「あなたと出あいたい、今、共に」 日野 敦子

2006年12月01日

 同朋新聞の九、十月号の「人間といういのちの 相 ( すがた ) 」の欄に、いじめにより自死を遂げた大河内清輝君と、その苦しみに向き合った父親の祥晴さんの記事が掲載されている。それを目にした時、私にとって「いのちと出遇う」とはどういう事なのかとの大事な指標を頂いた出来事を改めて思い出した。

 それはある研修の場であったが、時代社会の諸問題でいじめ・家庭内暴力・引き篭り等が話題になった時の事、私達はそれらの不幸で悲しい出来事は、仏法に出遇う事が無かったから「いのち」が見えなかったのだとか、教えに出遇ったなら結果は変わっていたに違いない等と、自分の体験も加えながら感想を述べ合っていた。その場は「仏法」だとか「教え」だとかの言葉のみが先行して、出来事の中で死に追いつめられていった人々の悲しみや苦しみはどんどん置き去りにされていった。

 そんな私達に先生は「亡くなった人達に向かうことを抜きにしては、真実は見えてきません」と。地に足の着かない、まるで真宗マニュアルとでも言う様な論議をしていた私達にとって、その一言は衝撃だった。

 思えば、同朋会運動発足以来、数多くの学習会が開かれ、まるで競い合うかのごとくに参加してきたが、その聴聞の内容は私自身吟味されていただろうか。ただ学習の場に身を運んだという事で仏法に触れ、解った事として錯覚していたのではなかったか。その結果、他に目を閉ざした狭い自己中心的な関心の中で、こじんまりと自己完結してしまう。そんな私に向かって先生は、「念仏申さねばならない身を生きながら、心底から人間に生まれたという事を課題にした事がありますか」と問いかけられた。そして「人としての悲しみを取り戻させ、念仏申させて救わん」との如来の本願であるとお伝え下さった。

 人と人との深い出遇いは、悲しみの共有から始まる。今、人間の深奥なる願いは混迷を極める世だからこそ、いのちの響き合う出遇いを求めあっているに違いない。教区テーマでは「七百五十年後の親鸞を語り合おう」とあり、本山御遠忌では基本理念として「宗祖としての親鸞聖人に遇う」と掲げられている。「全ての人々と共に救われん」と民衆と共に生きた宗祖の願いは、時空を越えて私に届いているはず。その親鸞聖人の願いに呼応できる信心を頂くには、この世を生きて苦しみ悲しんだ人々の語りかけを、私自身がどう頂く事ができるのか。祥晴さんの言葉を借りれば、「自分自身の肌身で感じるものが心の中に届いたからこそ、いのちが見えてくる」と。時代社会の様々の苦しみ悲しみに向かって、初めて共に生きんとの願いを具現していく歩みを賜るのであろう。そして、狭い私の世界を越えて、広く豊かな出遇いも又、同時に賜るに違いない。

大分組 見成寺 坊守 日野 敦子
教区報『遇我遇仏』6号