「あなたと出あいたい、今、共に」 津垣 慶哉

2007年03月01日

 「宗祖」とは何か?

 本山から提起されたこの問いかけを語り合っていくなかで生まれてきたのが冒頭の教区教化テーマではないかと思います。

 以下は僕の所感です。

 わが宗門の中でしばしば「親鸞に還ろう」ということが言われます。七百数十年の時空を遡って親鸞に直参するという考え方には何かしらの異和感を覚えます。それが「750年前」ではなく「750年後」と表す所以でしょう。ここには僕たちが過去の親鸞に「還る」のではなく、「親鸞、言葉となってここに来たれり」という強いメッセージがあります。

 「一人いて喜ばば二人と思うべし、二人いて喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり。我なくも法は尽きまじ和歌の浦、あおくさ人のあらんかぎりは」

 長い歴史の中で青草びとと呼ばれる親鸞を慕い、本願の教えを敬う人々が伝承してきたというこの言葉を僕たちは知っています。ここにも親鸞を「宗祖」と仰ぎ、念仏の中で生まれ、苦悩し、そして念仏の中で安んじて死んでいった人々の歴史を思います。また「その一人は親鸞なり」の言葉にはわれ一人に開かれてくる信心の公性が語られているのではないでしょうか。

 かつて曽我量深師は「南無阿弥陀仏」について、「阿弥陀仏は単なる孤独的観念の四字名号でなく、それは南無を具足し、また南無に具足せる阿弥陀仏である」と述べておられます。念仏申す人のところに阿弥陀仏は来たる、阿弥陀仏の本願の声が聞き届けられるところに念仏の行者がまた一人誕生する、そういう意味合いをもって、このテーマを受け止めたいと思います。

 今僕たちが南無阿弥陀仏を生きんとする時そこに「あなた」(我?汝)としての二人称の公なる出会いが開かれてくる、または思いがけずもその仲間に恵まれる。それを浄土真宗の僧伽(サンガ)と名づけていいのではないでしょうか。

 人と人との深い出遇いは、悲しみの共有から始まる。今、人間の深奥なる願いは混迷を極める世だからこそ、いのちの響き合う出遇いを求めあっているに違いない。教区テーマでは「七百五十年後の親鸞を語り合おう」とあり、本山御遠忌では基本理念として「宗祖としての親鸞聖人に遇う」と掲げられている。「全ての人々と共に救われん」と民衆と共に生きた宗祖の願いは、時空を越えて私に届いているはず。その親鸞聖人の願いに呼応できる信心を頂くには、この世を生きて苦しみ悲しんだ人々の語りかけを、私自身がどう頂く事ができるのか。祥晴さんの言葉を借りれば、「自分自身の肌身で感じるものが心の中に届いたからこそ、いのちが見えてくる」と。時代社会の様々の苦しみ悲しみに向かって、初めて共に生きんとの願いを具現していく歩みを賜るのであろう。そして、狭い私の世界を越えて、広く豊かな出遇いも又、同時に賜るに違いない。

田川組 正応寺 住職 津垣 慶哉
教区報『遇我遇仏』7号