「宗祖と現代」 田畑 正久

2007年12月01日

 フランスの哲学者、ボーボワールは「老い」という本の中で「人生の最後の15?20年間、人間が一個の廃品でしかないという事実は我々の文明が挫折したことの証明だ」と書いているそうです。私が働く高齢者の医療・福祉の現場で聞こえて来るのは、「役に立たない」、「迷惑をかける」、「生きている意味がない」、「歳をとって何もいいことがない」という声であります。まさに自分は「廃品」であると表明しているかの如くであります。仏教の智慧のない、理知分別で十分という発想の挫折を示唆していないだろうか。

 病気の進行の不安を訴える高齢者に仏教の勉強をしませんかと勧めると「わしには まだはやい」と言い、さらに「浄土なんて信じられません」と言われる。しかし、表白される内容は老・病・死による不安の内容です。理性知性でしっかり考えて、分かるもの、良しと判断できるものを積み重ねて人生を生きて来られたのでしょう。その思考の延長線上には輝く「しあわせ」が実現するはずであったのに、迫り来る、老・病・死の現実が受け取れないのです。愚痴をいいながら諦めるしかないと言われるその顔は決して「明るく穏やかな顔」とはいえません。宇佐市出身の信國淳先生の「歳をとるということは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」という世界とは全く逆の世界が展開してきているのです。

 仏教なしで生きていける、しあわせになれると豪語していた多くの現代人は、その延長線上で自分の思い、考えで自分を傷つけることになっているのです。ボーボワールの指摘は宗教なしでしあわせになれるという多くの現代日本人の思考の挫折を言い当てているのではないでしょうか。

 その挫折が元気な高齢者にはキレやすく凶暴な老人として表出される傾向があるともいわれています。こうしたキレやすい最近の老人を「新」老人と呼ばれているそうです。その背景には、携帯の普及などで加速化する時間、独居の増加などで関係性を失い孤立化する空間、そしてマニュアル化された笑顔など商品化される感情の不自然さ等々の変化する時代状況があります。それは人間が加齢と共に本来ならば培われるべき感性、人格の成熟する歩みが社会から見失われているが為の現象ではないかと思われるのです。人間としての成熟、すなわち智慧をいただく歩みではなく、若さを誇る未熟さ、新しい知識をよりどころとし、その知識を増やす生き方を良しとした現代人の理知分別の生き様が、その後の展開の中で、よりどころとしていた知識、新しい知識に追いつけなくなる現実、分別での尺度が自分を苦しめるものになって、人間性をも疎外するものになろうとしているのではないでしょうか。仏の智慧のお育てを受けて、多くの因や縁(無量寿とも言える)によって私が生かされている、支えられている関係性を感得する成熟した人間になる歩み、仏の心にふれる歩みが大事であることを認識させる時代性を思うことであります。

佐藤第二病院長 田畑 正久
教区報『遇我遇仏』10号