「宗祖と現代」 三那三 秀亮

2008年06月01日

 先日、地元の新聞で『自死という生き方』と題した本の書評に目が止まりました。

 本の著者は65歳の春、ある神社の裏山で 縊死 ( いし ) 。自死が失敗しないため頸動脈を自ら斬り裂いていたとか。この人は生前、社会思想の研究に携わり、自死を自分の哲学的事業だと位置づけておられたようです。

 そういう方であったのですが、私はこの人の死について語る言葉を持っていません。

 一つ気がかりなのは、この本の書名にひかれてか、本の宣伝フレーズにつられてか、発売二ヶ月足らずで三刷を重ね、それ相応の人々に興味・関心を呼んでいるということです。

 どういう問題があってのことでしょうか。

 場面は変わりますが、この頃十数名の者が田畑正久先生を中心に、毎月一回『大無量寿経』の聞法会を始めました。『平野修選集』第一巻・大経講義に導かれながらゼミナール形式で進めています。

 例えば私共、日常的に聞法とか仏法聴聞とか「聞く」ということが大きな位置を持っています。なぜかというと、平野先生はこう応答されます。

 「我々は知らないからです。浄土といおうと、阿弥陀仏といおうと、私たちは知らないから聞く以外にないのです。けれども聞いて、単なる理解にとどまるなら、それは仏法ではありません。聞いてさとるということがなければ、仏法ではありません。その「聞いてさとる」ということが「信」ということです。知らないものが聞いてわかったという、そのわかり方は、「如来のさとりがいただけた」という、そういうわかり方です。それを「信」というのです」と。

 平野先生のこの了解は、宗祖聖人が『教行信証』(信巻)で『華厳経』を引かれて「信は道の元とす」「信はよく歓喜して仏法に入る」「信はよく如来地に到る」とお示しになっていることに基いたものかと思います。

 最初に出しました『自死という生き方』のところに戻ります。仏教には「生死」の問題をどう受け取ればいいのかという問いがあります。

 中村元先生という碩学の方がおられて、その方がサンスクリット原典から『大無量寿経』下巻冒頭の十一願成就文を訳されています。釈尊がお弟子のアーナンダに、

 「実にまた、アーナンダよ。かの仏国土にすでに生まれ、現在生まれ、未来に生まれるであろう生ける人たちは、すべて永遠の平安(ニルバーナ)に至るまで<正しい状態>でいる者(必ず解脱の理想を達成する者)であると決定しているのだ。・・・こういうわけで、アーナンダよ、かの世界(浄土)は略して<幸あるところ>と言われる」と。(以上訳文)

 この訳文のままではわかりにくいかもしれません。平たくはこう言えないでしょうか。

 「この世に生まれた者は、過去・現在・未来のどのような時代であっても、浄土という「幸あるところ」に生まれるならば、この世のいのち尽きてもなお「涅槃」(ニルバーナ)という永遠の平安世界に帰っていくことになるのだ」と。私共の「生死」をどう受け取るかということについては、この知見で充分でないかと思います。

 このように仏典が伝える<幸あるところ>や「涅槃(ニルバーナ)」という世界から見ますと、『自死という生き方』は、私共現代人の無明の闇に紛れ込んだ妄念・妄想ではないかと、そんな思いがしてきます。

別府組淨願寺前住職 三那三 秀亮
教区報『遇我遇仏』12号