「宗祖と現代」 長野 淳雄

2008年09月01日

 昨年、ある組の同朋大会で「あなたにとって大事なものは何ですか」というテーマをいただき、そのことを十四・五人の方々に尋ねた。低年齢の人は、親・友だち。中年の人は、仕事・家庭。高齢者になると健康が圧倒的で、大事なものが年齢によって異なる。病気、体が衰えると健康が一番になる。皆自分のことしかないのに、そんな中である老婆は「念仏と平和が一番大事」と言う。九十六歳の老婆は、夫と息子を戦争で亡くし、今は一人暮らしをしている。人は出会った出来事によって大事なものが決まる。しかし、その大事なものも目の前の状況に流され、過去も未来も見えなくなる。まさに「遠く観ることあたわず」。老婆の言葉は、あの悲惨な戦争から目を逸らさず問い続けた言葉であった。

 日本は、色々の危機はあったが戦争をせずに来た。その基礎に平和憲法、第九条があった。九条の起こりも歴史も確認されずに、近年心ない人は、他国と対等に、国力を上げるためにとか、先進国のプライドを守るためには九条が邪魔であるという。

 逆であろう。九条のお陰で他国と対等であり、先進国といえるのである。平和憲法がある日本だから信頼があり対等の関係が保てるのである。少し長くなるが先達の言葉を引用させてもらう。

 「平和のために軍備が要る、というようなことの簡単な誤謬に気づかないものを、愚者という。平和とは武装を捨てるということだ。この一年生の認識から出発し直さなければならぬのが、原子爆弾を懸命に製作している連中だ。(原子爆弾製造に協力している科学者は、知者のようであって、実は極まれる愚者なのだ)」

 「簡単な真理に気づくことから、世界の平和は来る、即ち平和の女神は「空手にして来たれ」と喚んでいる。この「空手」ということが簡単な真理なのだ。簡単とはそれだ。」

 「空手とは素手ということだ。何もにぎっていないばかりではなく。拳固をかためてもいない。―何も持たないところから平和が来る。・・・」(『現代語の仏教 毎田周一随想集』)一九六六年に逝った毎田周一氏の言葉は、平和の礎としての憲法九条の意義を見事に言い当てている。

 六十二年前公布の平和憲法制定を喜び、二度と戦争をしない、平和な時代が来たと、両手をあげて歓迎した憲法。人は平和に慣れ、現況を当たり前にすることの怖さを具している。平常時は、大事なことを見失い、問いを失う。異常時は、問いを持って大事なことを吟味、平和こそ大事であると。

 この身とこの土を批判し続ける教え、「顕浄土真実」と親鸞聖人は示された。この身と、この時代社会を照らす浄土の歩み。その浄土往生の歩みを信心と明らかにされたのであろう。

 憲法九条は、根本的な平和の精神である。浄土往生の歩みの中から、如何にこの精神が尊いのか、その精神を今一度呼び戻し、記憶していくことがいる。浄土往生とは、浄土がこの身とこの土への具体的批判を展開する根本原理であろう。このことを私は、「仏の御名をきくひと」の姿といただくのである。

  たとい大千世界に

  みてらん火をもすぎゆきて

  仏の御名をきくひとは

  ながく不退にかなうなり

                (浄土和讃『真宗聖典』四八一頁)

耶馬渓組 明圓寺 住職 長野 淳雄
教区報『遇我遇仏』13号