「宗祖と現代」 桑門 豪

2009年03月01日

 我々が念仏者として現代の課題にどう向き合うか、ということに思いをいたしますとき、様々なことが思い浮かんでくるのですが、今、ひとつ、お伝えしたいこと、ということになりますと、曽我先生がおっしゃった「宗教本能への目覚め」ということをまず思うのであります。大変に重要なご指摘であると思いますので、先生のお言葉を紹介させていただきます。

 わたしはまあ、いろいろ人さまから聞いておるので、自分がそういうことを勝手にいうわけではないけれども、例えば本能という言葉がある。本能というのはまあ普通この、動物的本能だ、と。まあ普通、本能といえばすぐ動物的本能だ、と。まあ、こういうふうに一般に考えられておるようでありまするけれども、しかし本能というものはなにも動物本能だけではなしに、やはりまあもっとこう宗教本能、と。やはりこの人生には宗教本能というものが―。動物本能と共にこう宗教本能と、そういうものが最も深いところにあるもんである。まあ、そういうようにもいわれておるわけであります。で、この人生の旅というものは結局つまりまあ、宗教というものによってこう方向を与えられる。またつねに帰着点というか帰結というものが、そういうものが与えられるもんである。まあ、そういうことを教えてくだされてあるのが、善導大師の二河譬という、二河白道の譬というものであります。

 (『曽我量深説教集』第五巻)

 と、このように曽我先生は言われています。そして、先生の言われる宗教本能を目覚めさせるものこそが宗教原理というものでありましょう。宗教の原理、つまり、それは人生の拠って立つ根本法則・おきてとして、私どもは親鸞聖人が遺して下さった浄土真宗の教えというものに帰依してこそ、宗教本能に目覚め・自覚することが出来、人生に「精(いさみ)有る生活」を見出し得るのでしょう。

 曽我先生は、この宗教本能に目覚めなければ、人生は自分で気付くことなしに、「煩悩」という薬を飲んで、眠ったようなものだ、ともおっしゃっていました。「眠ったようなものだ」と言われるのは、我々が日常において、喜怒哀楽・悲喜交々の生活を御本尊からの働きかけに気付かずに送ってしまい、いわば、「空過」している姿を言われているのでしょう。弥陀の本願力廻向の南無阿弥陀仏の薬を飲んで、法蔵魂に目覚めることなしには、人生を徒労に伏してしまうのです。

 如来の本願力、即ち南無阿弥陀仏の廻向をいただき、廻向成就して、念仏の主とならせていただくことによって、自己の魂が人生最高最深の世界に目覚め、人間に生まれたことの生き甲斐を得、それを我が人生の信念とする身に成らせていただくことが大切であると、つくづく思うのであります。真の念仏者として生きる、ということが、そのまま、現代の課題に向き合う姿勢となっているものであろうかと思います。

佐伯組 善教寺 前住職 桑門 豪
教区報『遇我遇仏』15号