「宗祖と現代」 藤ノ原 惠行

2009年06月01日

 経営の心得として「ピンチはチャンス」というそうだ。もちろん「ピンチ」に陥った原因から結果への流れをそのまま延長しては「チャンス」になるはずもなく、そこに発想の転換が必要なことは言うまでもない。よく考えてみれば奥行きの深いものを感じる。自分のことを振り返ってみても、順調に問題もなく暮らしていたときのことはほとんど記憶になく、困難なこと・不安なことなどに苦しんでいたときの方が記憶に残り、ずっと充実していたように思う。問題を自分の問題として苦悩していたときが、一番自分自身に近いところで思考して自分を見つめていく機会だったのではないだろうか。そこを通過することが私自身にとっておのずから一つの転換点になっていたのだと思う。

 宗祖にとっても行き詰まりが大きなご縁になったことだ。山を下りたとき・弾圧により越後へ流罪になったとき・善鸞義絶のときなどは、それらの出来事の中で宗祖自身が苦悩されたときだったのだが、いずれのときもその後の思想の転換や深まりにはめざましいものがある。現在残っている『教行信証』「後序」の記述、御消息や恵信尼文書の記録も、それらの困難に出遇ったことの貴重な記憶なのだ。何もないときは何も残らない、それは私にとっても同じである。困難に出遇い自分の中の何かが変わっていったとき、見えてくる世界が変わり生きる世界が変わる。だからこそ深い記憶となるのだろう。

 現代は宗教離れあるいは教団離れの時代だと言われている。宗門にとっては未曽有の困難に出遇っていることだが、藤田敬一氏が『同和はこわい考通信』No.164に、

 ――宗教者の陥りやすい危険は、自分の中の差別性、我が内なる差別意識を自覚して自己否定することです。自己否定は他者批判を控えさせる。そうすると、出口なしのふんづまりになると、私は思う。自己否定はいいですよ。自己否定が関係を変える方に向かわなければ、自己否定は常に内向するしかない。……中略…… 問題は「自己の差別性」ではなく、「関係のなかの差別性」なのだ。「(単独)自己の差別性」なんて何百万回、何千万回語ろうと、そんなことはまったく意味がない。差別意識を仲立ちにした人と人との関係を変えようとしない「自己否定」はぐるぐるまわりするだけである。――

 と書かれたことを思い出す。宗門が出遇っている困難は、実は経済の危機であり宗教の危機ではない。本当の危機は、自己否定の大切さをさんざん説いておきながら、現実には人と人との関係を変えようともしない寺院の側の自己否定のあり方にあるだろう。あらためて宗祖に学ぶ姿勢が問われる「チャンス」ではないかと思うこのごろである。

京都組 正明寺 藤ノ原 惠行
教区報『遇我遇仏』16号