「宗祖と現代」 渋谷 圓

2009年12月01日

 “助かりたい”と望む心がなかったら、宗教の世界はないのでしょう。助かりたいと思うことが自分の力でどうにかなるのだったら、神や仏に祈ったりはしないのでしょう。助かりたいと思う心と自分の力ではどうすることもできない現実に直面したとき、神や仏の力を頼って、神仏に祈るのです。ところが最近報じられている事件の中には、その宗教の粋を超えてしまったような、猟奇的な事件が報じられている。

 病気の場合、初期の段階では、医師の力を信じ、医学技術を信じ、薬の効果を信じて治療を続けます。幸いにして早期発見であれば、治療の効果で、死の不安から解放されます。しかし末期ともなれば、奇跡でも起こってほしいと思う気持ちで、神仏に祈る心も起こります。しかし人間の力の及ばない世界のことはどうしてみようもないことを知ることになります。

 助かりたいという気持ちに対して助けようとする働きがあると人間は考えます。救済という言葉は、助かりたい側と助けようとする側とで成り立つ言葉であるといってもいいのでしょう。

 ところがここに大変やっかいな問題があるのです。そのやっかいな問題というのは助かったということが目に見え、証拠がはっきり示されれば助かったということが分かり易いのですが、目に見えない場合、助かったということがどのようなことなのか分からないのです。

 たとえば、ガンを早期に発見して治療した結果、ガン細胞が無くなった。術後いろいろな検査をしても問題がない。5年10年経過しても再発がないというとき、そういう場合は助かったと思えるのです。しかし、医学的にはっきりとした結果が出てこない場合もあります。そのときは「しばらく様子を見ましょう」ということになります。

 病気の場合は結果が出るまで「しばらく様子を見る」ことも、必要な医療行為といえるのでしょうが、やっかいなのは、目に見えない世界、人間の思いが及ばない宗教の世界についてです。この目に見えない不安の世界が宗教のはたらく世界なのです。そして目に見えない世界をいいことにして、さまざまな宗教がうごめくのです。

 親鸞聖人の世界も、助かりたいという気持ちと助けようとする働きが出発点になっていることはいうまでもないのでしょう。つまり救済ということが土台になっている。

 けれども親鸞聖人の救済というのは、迷いから解放される方法を探すとか救い主にすがるというのとは、すこし違うように思われます。親鸞聖人はそのような思いで仏に祈ったのではないようです。

 親鸞聖人は八十六歳という人生の最晩年に『尊号真像銘文』を著しておられる。その『銘文』の冒頭、『大経』の四十八願文を釈する文の最後に、「自然というは、行者のはからいにあらずとなり。」と言われている。この言葉は『末燈鈔』やほかの著作でも使われていることが、知られています。

 宗祖の晩年の心の様を推察すると、「自然法爾」という世界に、深くうなずいたお姿が想像されます。善鸞の義絶(聖人84歳)、「彌陀の本願信ずべし」の文の感得(85歳)、このような体験を通して「自然法爾」の世界が開かれたのでありましょうか。「法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。」ここに親鸞聖人の救いの世界があるのだと私はいただいています。

 救済ということを思うとき、難民の救済、飢餓からの救済、医学的救済など今日の重い課題があることは言うまでもありません。それらのことを思いながら、「宗教からの解放」ということを問題にされた某師の言葉を思い出しました。「自然というは、行者のはからいにあらずとなり」と。これは宗教からの解放なのだと私には思えます。

耶馬溪組 珀明寺 渋谷 圓
教区報『遇我遇仏』18号