「宗祖と現代」 武内 和朋

2010年03月01日

讃歌をうたう

 仏教讃歌という言葉からどのようなことをイメージされるでしょうか。なじみの深い『真宗宗歌』や法座の最後に必ず歌われる『恩徳讃』、あるいはご本山での「音楽法要」を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、いずれにせよご本尊を前にして歌われる音楽であることに違いはありません。

 幼い子どもたちを遺して浄土に帰られた平野恵子さんという坊守さんがいらっしゃいました。彼女は、病の身をいただいてからの様々な思いを『子どもたちよ、ありがとう』(法蔵館)という本に記していますが、その彼女の臨終の様子を、お兄さんからお伺いする機会をいただいたことがありました。臨終が迫るとき、すでに癌が脳に転移していたであろう彼女は、病床にあって大声で仏教讃歌を歌ったというのです。その話を聞いて、私はたいへん大きな感動を覚えました。

 私はそれまで、寺の本堂などで、ご本尊を前にして参詣者みんなで声を合わせて歌うものが、讃歌だと思い込んでいたのですが、これは大きな誤りであったのです。いつでもどこでも、私たちが教えに出遇った慶びを口にすることが、つまりはお念仏をいただくことが、讃歌に他ならないことを、私はこの時に教えていただいたのでした。

 人生の最期に自分の人生を振り返り、みほとけを讃えずにはおれなかったこと、そう頷かされる教えに出遇えたこと、その感動が讃歌となって溢れ出た平野恵子さんのように、讃歌を歌いたい。その時以来、私はそう思うようになりました。

 『浄土論』において、天親菩薩はお念仏を通して阿弥陀如来の功徳をたたえること、すなわち讃嘆を、浄土に生まれるための五つの方法(五念門…礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向)の一つに数えておられますが、仏教讃歌とは歌による讃嘆に他なりません。

 仲野良俊先生は「讃嘆というのは、礼拝によって見つかった光の世界に自分がとけこんだこと、人間が本当に立つべき場所を見出したことであります。光が見出され、それが自分の立つべき世界であることが知らされた時、人はその光にとけこみ、固執していた我は消えていく、そういう状態からくる感動が讃嘆であります」と教えてくださいました。

 御遠忌ソングの一つである『今、いのちに目覚めるとき』の一節には、「このかけがえのない私に いのちが今、かがやく」とあります。「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマを、一人称としての「私」という視点でいただいた大切な言葉ではないかと思います。如来のいのちのはたらきに出遇ったときにこそはじめて、固執していた我が砕かれ、私はかけがえのない私であったといただけるのでしょう。如来のいのちのかがやきのなかに生きるこの南無の姿は、まさに讃嘆そのものではないでしょうか。

 来る5月15日にウサノピアで行われる日豊教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会では、教区内の6つの合唱団が、仏教讃歌を合同演奏することになりました。御遠忌ソングを含めた6曲が、総勢150名程の合唱団によって歌われます。

 活動の内容も技術的なレベルもそれぞれ異なる合唱団が集まって、どのような響きが生まれてくるのかわかりませんが、果てなきひかりに摂められ、尽きせぬいのちに生きる感動が、平野恵子さんからいただいた仏教讃歌のこころとともに、少しでも伝わっていくような演奏になればと思っています。

日田組 長福寺 武内 和朋
教区報『遇我遇仏』19号