報恩講を迎えるにあたって 村上 良靜

2010年12月01日

 今年も各地各寺で報恩講が勤まる時期がやってきました。報恩講はいうまでもなく、我々真宗門徒にとって大切な仏事であります。しかし、単に宗祖親鸞聖人の御命日の仏事ということだけでなく、「報恩」つまり「知恩報徳」という大切な一点を忘れてはなりません。

 宗祖御自身は『教行信証』総序の文に

 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。(聖典150頁)

 と、また行巻の正信偈、偈前の文に、

 ここをもって知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈を披きたるに言わく、それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静 己にあらず、出没必ず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理宜しく まず啓すべし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまわずは将に何をもってか達せんとする。神力を乞加す、このゆえに仰いで告ぐ、と。已上

 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、(聖典 203頁)

 と、三国の高僧の教えに遇うことができた慶びを表され、如来の恩徳に報いていく、応えていくということを述べておられます。遇い難き佛法に今遇うご縁をいただく我々真宗門徒は一人一人において宗祖の歩まれた御苦労をとおして、我が身を問うていく法縁にすることが報恩講本来の意味であると思います。

 日常生活を振り返るとき、何事にも自分の欲望や損得を中心にした生活をしています。いつも都合のいいような生活を……。その事実は否定できません。都合の良い人は「良い人」であり、都合が悪ければつい悪口さえ言ってしまいかねない。一人の人に対しても、ある時は「良い人」に仕立て、ある時は「悪い人」に仕立ててしまいます。

 宗祖は、このような生きざまを『正信偈』に「邪見憍慢悪衆生」とお示しになっておられます。なかなか自分の都合どおり、思いどおりにはいかないものです。だから悩んだり、苦しんだり愚痴になったりするのです。また、都合が悪くなるとすぐ他(人)に責任を転嫁させ、自分を正当化する。それが私の姿です。しかし、その我が身の事実には気づかないものです。

 念仏の教えに出遇ってこそ、醜い邪見と憍慢心に満ちた私の姿をそのまま知らされるのです。と同時に、自分の都合の善し悪しにかかわらず、あらゆることがご縁として引き受けられ、如来の限りなき願いのただ中をこの私が狭い心のまま生かされている事実を知らされるのです。

 もし我が身を真摯に問うことなく、報恩講が単なる慣習として終わるとするならば、それは本来の意味から掛け離れたものと言わざるを得ません。生かされているこのいのち「生まれた意義と生きる喜びを見い出す」ことを問い続け、どこまでも念仏の教えを聞法していく座として報恩講を迎える大切な意義があるのではないでしょうか。

京都組 善德寺 村上 良靜
教区報『遇我遇仏』22号