第1回 育成員研修を終えての今後の展開 加来 知之

2011年12月01日

 去る10月17日、日豊教区会館において2011年度第1回育成員研修会が開催された。

 今回の育成員研修では、今後3年間、教区教化の中心施策となる「真宗の本尊」の学びを始めるにあたり、鹿児島教区の櫟暁先生にお越しを願いご講義いただくことにした。

 研修会の前日、打ち合わせの席で先生にお願いしたのは、

①ご著作『浄土真宗の本尊』で展開さ れている内容をもとに、「真宗の本尊」を学んでゆくうえで確かめておくべき点や手がかりとなる方向性をご教示いただきたい。

②来年50周年を迎える真宗同朋会運動を草創期から荷負ってこられたお一人として、初期の運動の熱意や息吹のようなものを、後進の私たちに伝えてほしい。

③先生の戦争体験についても、貴重な証言として、この機会にお聞かせ願いたい。

 といったような、まことに虫のいい欲張りな要望であった。

 翌日、先生が、この無茶な要望すべてに応える形で講義を構成しお話し下さったことには、本当に舌を巻くとともに、頭の下がる思いであった。攻究の途中から通夜のため席を外さねばならなかったので、後日、録音を聴かせてもらった。班別攻究で出てきた質問に一つ一つ丁寧に答えつつ講義を進めて行かれる先生の声が、レコーダーのイヤホンを通じて聞こえてくる。

 なぜ阿弥陀仏でなく南無阿弥陀仏なのか。阿弥陀如来は釈尊のように肉体をもって現れた実在の仏ではない。阿弥陀如来とは、端的に言えば、我々をすべて絶対平等に救い取るために「言葉になった仏」である。南無阿弥陀仏という言葉になって、帰命できない私たちにはたらきかけて「帰命せよ、帰命せよ」と勧め、我々を目覚まし続けておられる。だから単に「阿弥陀仏」だけではなく、「南無阿弥陀仏」なのだ、と。いつでも、どこでも私の口で称えられる南無阿弥陀仏が本当の本尊である。だから浄土真宗の本尊は「南無阿弥陀仏」であることがはっきりすれば、絵像であろうが木像であろうが大きな問題はない、と。また、先生は「見仏得忍」から「聞名得忍」へということもおっしゃった。思うに、南無阿弥陀仏が如来の呼び声となることで、私たちは「聞く」ことに導かれる。本願のいわれを聞き、如来が私のために南無阿弥陀仏という姿を取られたと頷かれたとき、阿弥陀如来の光明に照らされた我が身に出遇っていくのであろう。真仏土巻にも「眼見」「聞見」という言葉が出てくる。

 示唆に富んだご講義の内容もさることながら、ご高齢にも関わらずこの研修会に身を運び、一つの質問もないがしろにせず丁寧に向き合って下さった、その教法に対する謙虚なお敬いの姿と教学を忽せにしない先生の真摯な態度そのものが何よりも大きな教えであったように思う。

京都組 淨邦寺 加来 知之
教区報『遇我遇仏』24号