真宗の本尊について 長久寺 德瑞

2012年03月01日

 「真宗の本尊」については既に色んな先生から書物が出されていますので、少し違う方面から考えてみます。それで先ず宗教。宗教とは何か。私たちの日頃の生活。人間の在り様は勝った敗けた損した得した好きだ嫌いだという日々です。端的に言って煩悩熾盛による差別動乱の世界です。従って常に不満と不安からは免れられません。しかもこれはキリが無く連続無窮です。これが世間ですし、仏教では生死界と言い生死海とも申します。にもかかわらずど,うかすればどうかなると思い、神や仏まで動員して自我実現に奔走する。加持祈祷お祓いの類いです。一般的にはこれを宗教と呼んでいます。でも如何に宗教と言っても結局は自我実現に奔走している訳ですから世間の延長線上、寧ろ世間の迷いを深めるばかりです。先に生死海で申した如く、その方向にはどこまで行っても充足安心は得られません。従ってこの世間=生死界を出る以外に充足安心はありません。世間を出る生死界を超す道。これが宗教です。実は生死出ずべき道を生涯かけて求められたのが宗祖親鸞聖人なのです。

 さて宗教の宗。宗は人生の私の宗(もと)です。立脚地、それに依って生きる。それが宗でありその宗を宗たらしめておるものが「本尊」なのです。私たちは親鸞聖人を宗祖と呼びます。何故宗祖なのか。宗祖と開祖の違いですね。仏教には色んな宗派がある。当然それぞれに開祖がおり教えがある。ただここで大事なことは、それらの教えが私の宗となり得るのか、という選択が必要です。素敵な着物でも私に似合わぬ物は買いません。立派な教え凄い行であっても、何一つ私に叶わないものであれば私の宗とはなり得ません。聖人は二十年に及ぶ求道の末、法然様にお遇いし、「お念仏を称え弥陀にたすけられまいらすべし」との師の一言に触れ、雑行を棄てて本願に帰した。およそ仏教である限り仏に成る教えです。真宗では「本願を信じ念仏申さば仏に成る」と教えます。これであれば万人の宗となり得ます。ですから宗祖です。

 そこで念仏が問題になりますが、仏教では世間のことを世間は虚仮なりと言います。何故、虚仮なのか。それは人間はどうあっても我執から離れ得ないので真実は無い。つまり人間は救われ難い存在です。この人間を救う道はないのかと。その昔、阿弥陀仏は大願を起され法蔵菩薩の位に降り、難行苦行五劫の間思惟され遂に本願を正受された。これを仏の本願と申します。本願と言えば自分とは関係ないものの如く感じますが、人間誰しも心の至奥に純粋本能、真実なもの、真実な言葉に遇い度いという叫びを持っています。その叫びに応えるもの。それが仏の本願なのです。この本願の酬報土。清浄真実なる世界。これを浄土と申します。浄土からの名告りが南無阿弥陀仏。阿弥陀様が名となって私の上に届いた仏。これが南無阿弥陀仏でございます。

 我が名を称えよ。全ての徳が成就している南無阿弥陀仏を称えれば即の時正定聚に住す。念仏申して仏に成る以外に凡夫の救われる道は無いのだとの呼び声に頷く。およそ人間であって凡夫でない者はいません。浄土の真実を以って我が宗となす。真宗です。その宗を宗たらしめているものこそ阿弥陀仏。その名告りが南無阿弥陀仏。つまり真宗のご本尊は阿弥陀如来であります。

大分市組 長久寺 長久寺 德瑞
教区報『遇我遇仏』25号