真宗の本尊について 長峯 滉明

2012年06月01日

 昭和51年6月に、私達の大谷派におきまして「本尊下附の拒否」という大きな問題が起り、あらためて本尊ということが私達の問題になりました。「真宗の本尊」ということは、真宗におけるいろいろな問題の中のひとつ、というようなものでないのです。真宗そのものをあきらかにする問題であると思います。広瀬杲先生は「私にとって宗教とは何かと、こう問われるならば、私自身の人生における本尊を明らかにする教え。それ以外のものを宗教と呼ばない」とおっしゃっています。これは確かにそのとおりと思います。宗教とは自分自身の人生に対する態度決定、生きていく姿勢の問題だということ、自分の人生をどのように受けとめ、どのように生きぬいていくかという態度決定、つまり自分の人生を生きてゆく時の姿勢を、その根本のところで決定してゆくのが本尊でしょう。何を本尊としていただいているか、何を本当に尊いこととしてゆくのか、そのことが自ずと私の人生を決定してゆくのでしょう。

 真宗大谷派の宗憲第九条に「本派は阿弥陀如来一仏を本尊とする」と定められています。ところが私達の仏檀には中央に阿弥陀如来のご絵像又はお木像を、そして向って右側に「帰命尽十方無碍光如来」の十字の名号、左側に「南無不可思議光如来」の九字の名号がかけられています。これは実は、阿弥陀如来の徳とそのはたらきをあらわす名が、十字九字の名号です。そこで、十字と九字の名号をとおして阿弥陀如来一仏を本尊とす、ということを申し上げます。阿弥陀なる如来の徳を讃える名号が十字の名号です。仏の徳を表す名ということで表徳門の名といいます。これに対して、阿弥陀なる如来の働きをあらわす名が九字の名号です。その名は表徳門に対して遮情門の名といいまして、私達の妄情を遮断する名ということです。私達があれこれと思いはかろう分別を断ち切る名です。阿弥陀如来が木像や絵像になっている立像は、観経第七蕐座観の住立空中尊の姿を形どられたものと教えられています。方便法身の尊形という意味からも、この立像は観経の第七蕐座観の住立空中尊の形どりであると思います。その姿において、すでに立上がり、一歩私に向ってふみ出して下さる願心の荘厳であります。本堂のご本尊として木像、絵像を安置されているのは、聞法の道場である本堂に身をすえるということは、ひたすらその願心を聞いてゆくことであるからです。

 宗祖は聞ということについて、信巻に「経に聞と言うは、衆生仏願の生起、本末を聞きて疑心あることなし。これを聞と曰うなり」と示して下さってあります。その「仏願の生起、本末」を端的に形どられてあるのが、住立空中のお姿です。私一人のための「弥陀の五劫思惟の願」であり、私一人のためにその存在を賭けて立ち上がり、私に喚びかけているのです。私一人に向って「念仏申さるべし」と喚びかけつづけてくださる。その招喚の声を聞く、そこに念仏の世界を賜るのです。礼拝の対象物でなく、方便のご誓願の名号であり、方便法身の尊形が、ご本尊であります。

大分市組 西福寺 長峯 滉明
教区報『遇我遇仏』26号