【「名告り」の一視座】 河野通成

2007年09月01日

『水平社宣言』における「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」ということは、どう考えればいいのだろう。「エタである事を誇り得る」とは、差別され続けてきた歴史を担った「なほ誇り得る人間の血は涸れずにあった」人間の「名告り」であるに違いない。そして、その「名告り」とは、単なる自己主張ではなく、人間であることを奪い続けることを紡ぎ出してきた「世間」全体を根本から告発し、問い返し、批判し尽くしていく名告りである。つまり「名告り」は、差別する側に向かって差別するな・差別してはいけないと呼びかけているのではない。名告りを聞く側の問題として、名告られた側は根本から差別し続ける人間の質・世のあり方を露呈せしめられるはたらきをもつのである。我々はその「名告り」を聞くところに共に人間になっていく道が開かれることを示唆しているといえよう。

しかし、ともすると、我々はその「名告り」に対して、全く違う反応を示す場合がある。例えば、自分より劣等であると認識した他者から、人間であることに対等だという態度を見せつけられたときの屈辱感を被害者感覚で受け止めようとする。ある意味で「名告り」は、人間を俯瞰する立場に立たせない、徹底して人間凝視の眼を持ち得ない私たちを、人間であることの悲しみにまで呼び戻そうとするはたらきをももつのであろう。

日田組 緑芳寺 河野通成