宗祖としての親鸞聖人に遇う 宮城顗

2005年10月01日

 私たちがこの人生を人間として生きてゆこうとするとき、問われることは、「何を依りどころに生きてゆくのか」、「なぜそれに依って生きてゆくのか」、「どのようにそれに依って生きてゆくのか」ということだと教えられました。そのことを、曇鸞大師は「何所依(どこによるのか)、何故依(なぜそれによるのか)、云何依(どのようにそれによるのか)」という言葉をもって教えてくださっています。

 ふりかえって思いますと、今日私たちは、この三つの「依」が明確にならないままに、というよりは、そんなことを問うこともないままに、その時、その場の力関係や気分に身をまかせて、右に左にウロウロしているありさまです。それは、国の政治の在り方から、個人の身の処しかたにいたるまで変わらないように思えます。

 そして、そのことから申しますと、私にとって宗祖とは、この三つの「依」を問いつづけ、その生涯をもって明らかに示してくださった方であります。

 その親鸞聖人は、法然上人のご生涯、その歩みを通して、「雑行を棄てて本願に帰す」と深い歓びをもって明記されています。そして、そこに依って、さらになぜそういえるのか、どのように依ってゆくべきか、ということを、七祖の伝統を遡って問いつづけてゆかれています。

 とくにその「どのように」ということは、単に実践の方法が尋ねられているだけではなく、より深く、よりきびしく、「どのような心をもって歩むのか」がきびしく問いつづけてゆかれています。つまり、宗教心そのものを問うておられるのです。

 まさに、真に問わなければならないことは、なにを信じているのかではなく、どういう心で生きているのか、ということなのです。今日、宗教戦争症候群などという言葉を、新聞や雑誌で目にしなければならないという現実があります。

 そこには、互いに、自分たちの信じている神、宗教をこそ絶対化し、固執するということ、さらには、この神、宗教を信じないものを否定し、抹殺することがそのまま、自分の神に義とせられるという思いこみがあります。そこでは、自らの信心・正義を問いかえすことなく、その信心・正義 のためには人の命を奪いとることをも辞さない頑なさが満ちています。

 それに対し、親鸞聖人は、善導大師の指南をとおして、自らの宗教心の在りようを問いつづけていかれました。その宗教心を、親鸞聖人は真実心・清淨心・柔軟心として聞思され、いかに自らに真実心・清淨心・柔軟心が失われているかを、深く悲嘆され、その悲しみにおいていよいよ本願の言葉を聞き直し、聞き直ししてゆかれています。そこには、真か偽か、善か悪かを問うその心が、我執に濁らされてはいないか、一つの観念に縛られた頑なさに侵されてはいないか、と問う心がつらぬかれていることを思います。

九州大谷短期大学名誉教授 宮城 顗
教区報『遇我遇仏』創刊号