ある坊守のつぶやき 佐藤 瑞穂子

2013年12月01日

 親鸞聖人の深いおこころに触れて

 今思えば、思いかけずここ真宗の本尊をいただく仏法領に住むことになった時、日暮しの中で、本尊の前に座って「南無阿弥陀仏」と申す教えに何を問われているのかと、わが身をふり返ると、念仏など申せない自分と思えたり、行きつ戻りつしながらの長い歳月を空過するように悶々としてきましたが、そんな歩みの中で、いよいよ生き難い自分に行き詰って眠れない時があり、ある明け方、ふと

煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
という和讃が顕ちあがってきました。

 ああ、こんな自分でも許されて生きていけるんだと、如来さまの温かい眼ざしを感じ、親鸞聖人の深いおこころに触れて、胸があつくなりました。

 私にはなぜかこの機法一体の教えがありがたく思えるのは、聴聞の中で如来の声がひびいてありのままの姿を照らされた時、喜びにつつまれる一時があるからです。こうして知らされるのは思いあがった自分であり、恥しい、迷うほかない自分でありましたと、深く頷いてゆけというのが念仏申せということであったのかと思います。

 そして、如来の声が届いた時、全く素直な自分になれることをありがたく思い、変わりようのない自分が摂取不捨のまなざしの中にある事を信じて歩め、という促しを受けて、また一歩踏み出す時、新たな力を賜わることが出来るのは、幸い仏法聴聞の縁をいただいて、諸仏に導かれてのおかげと深く感謝申しあげます。南無阿弥陀仏

大分組正観寺坊守 佐藤 瑞穂子
教区報『遇我遇仏』32号