真宗の本尊 村上秀麿

2013年12月01日

 先日、高校の教員をなさっておられる方のお話を聞かせていただく機会があった。先生は不登校の子どもたちと向き合っておられる。その折にお聞かせいただいたお話である。

 テストで99点を取った子が学校から帰って母親に見せると、返ってきたのは「どこが間違ったの?この次は100点取れるわね」という言葉であった。また、ある中学校で生徒と保護者双方に「あなたが家庭で親から言われる言葉で一番多いのはどんな言葉ですか?」、「あなたが家庭で子どもに言う言葉で一番多いのはどんな言葉ですか?」というアンケートを実施したら、双方の回答で半数以上を占めたベスト1の言葉は「早くしなさい」であった。「できて当然」という前提でものを言う大人たちから、否定的な言葉を浴びせられる子どもたちは疲れている。自己肯定感が持てないでいる。「できる」という前提を捨てて「できない」という前提に立てば子どもたちの頑張りが見えてくる、と。自分の子育てを振り返り考えさせられた。

 ところで、私たち大人はどうだろうか?分別の心でもって物事を分類比較し、都合のよいものを手に入れ都合の悪いものは排除しようとする。「健康で長生きが一番」、「他人の手を患わせるような状態になってまで生きていたくない」などの言葉を耳にすることがある。そういう前提に立てば、老いや病の自分に対して自己肯定感は持てるはずもない。仏教はそこに人間の傲慢さを指摘し、そのような人間の有り様を無明と押さえた。

 作家・天童荒太氏は、「小説『歓喜の仔』に登場する子どもたちが、どんな辛い境遇に置かれても決して絶望することがないのは、親から愛されてきた、根っこのところに愛されていたということがあるからだ。愛というのは言い換えれば肯定感、〈生きていてもいい〉という根本的な肯定感を貰えているがゆえにひとりでも生きていけるのだ」と真宗会館広報誌「サンガ」(№126)の中で述べておられる。

 また、「人間にとって究極的に必要なものが4つある。それは衣・食・住、そして物語だと思う。物語こそが人間を人間たらしめるものだと思う」と言われている。氏は「物語」ということについて、「例えば、人間が『これをしてはいけない』という法律以前の決まり事を受け継いできたのは物語だと思うし、それが常識とか倫理を形づくってきた」と言われる。

 私たちは日常生活の中でどのような物語を聞き、そして語り続けているのであろうか。ともすると、その多くは無明の闇の中で紡がれた物語ではないだろうか。私たちの先達は「選ばず・嫌わず・見捨てず」という真実の世界からの名告りである南無阿弥陀仏の物語を語り継いできた。今日そういう物語が聞かれなくなったように思うのは私だけであろうか。

田川組 光明寺 村上 秀麿
教区報『遇我遇仏』32号