声明の根源

2009年06月01日

 過日、来るべき親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けての歩みとして、教区では初めての、ご門徒を対象とした声明の研修が行われた。参加者は少数であったが、ひとつの大いなる方向性を頂戴したことである。

 戦前までは、教区内の幾つかの寺院にはそれぞれご門徒による楽が設置されていた。私の組においても、少なくとも自坊を含む、 二、三の寺院にご門徒の楽人があったはずで、それは、恒常的に設置されたものもあろうが、各寺院の御遠忌等に向けて、一時的に編成されたものもあったので ある。現に、四日市別院には、余間に見事な楽太鼓が残っており、これはまさに昔日、別院自体に楽を有していたか、或いは近隣の末寺寺院より、ご門徒の楽が あがっていた証拠ではないだろうか。臼杵組などにはごく最近までご門徒の楽が機能していた痕跡が残っているし、別府組には実際に復活して響流する寺院もあ る。ここ数年に至っては、京都組の若手僧侶による自発的な入楽が、別院御正忌をはじめとする年間諸行事に実施され始めた。

 声明の根源は、音である。「但有自然快楽之音」(『大経』)といわれるように、清風寶樹を吹く時に響流する、自然の音楽。これを聞き、表現するのが声明の本質ではあるまいか。そして、この音を復活するのが、声明研鑽の本使命であろうと思うところである。

 『大経』「東方偈」に「咸然奏天楽、暢發和雅音」(ものいう必要なく、自然に天の楽がととのい、ささげられることには、恰もな ごやかでやわらかな音が太陽の光がのびやかに届くように、瞬時に発せられるのである)とあるが、ここに「天楽」とは、その意味を慎重に汲む時に、単なる歌 舞音曲ではない。これは現在では、特に、「地楽」と解する必要があるように思う。ご門徒の大地に、脈々と響流する、本願力の音色を復活することこそが、僧 俗共に、御遠忌をお迎えする最も大切な方向性に相違ないと、ひそかに確信するところである。

大分市組 妙正寺 小栗栖法秀

教区報『遇我遇仏』16号