報恩講 拝読文を通して

2009年12月01日

 大きな火鉢に炭を入れ暖をとりながら、お斎の順番を待つ。日常は、静けさのなかにあるお寺もこの数日間ばかりは声が飛び交いながら「甚だ盛なる祭」(ガ スパル・ヴィレラ書簡)のような忙しさです。この日のために多くのご門徒が、清掃・餅つき・お華束やお磨きをし、報恩講をおむかえします。現在これだけ多 くの人が関わりながら一緒になって作りあげていく仏事は、報恩講のほかにおいてないような気がします。

 こうして今年も自坊では、真宗門徒にとって最も大切な行事である報恩講が、「例年の旧儀」として勤められます。

 報恩講では、『御文』・『御伝鈔』・『御俗姓』などが拝読されます。それは、「毎年不闕」、「今古退転なし」といわれるように、私たちが出遇うべき言葉として毎年欠かすことなく繰り返し、繰り返し読まれてきました。

無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば

(『御文』第四帖 八通目)

 時に『御文』は、「懺悔」という厳しい言葉で、自身の在り方、物事の考え方、生活姿勢といった自分の全体像を「あなたは、それ でいいのですか。」と問いかけられます。そこには、「祭」といったイベント的な報恩講というよりも緊迫した状況のなかの報恩講であるような気がします。

 確かにわが身のこととなるとなかなか納得しないということがあります。しかし、お釈迦様や宗祖親鸞聖人の言葉を聞いて、どこま でそのことの意を受けとめているのか、曖昧なところで納得したことにしてはいないだろうかなどと、問い尽くし、また疑問をもち、自分の姿勢を確かめ、そし て新たな頷きを通して教えとの出遇いがあるのではないかと思うのです。

 そしてこのことは、勤行(声明)についても同じことがいえるのではないでしょうか。

 毎年の例時として、一七か日のあいだ、形のごとく  報恩謝徳のために、無二の勤行をいたすところなり

(『御俗姓』)

 『御俗姓』で語られる「無二の勤行をいたす」という報恩講での情景は、教えとの出遇いのなかで溢れて出た念仏の声でしょう。感動の勤行であったり、思い惑いながらの勤行であったり、自己へのいらだちの勤行であったかもしれません。

 報恩講での「無二の懺悔」と「無二の勤行」という厳しい言葉(呼びかけ)は、私自身の抱えている課題や問いなど様々なことがあきらかになっていく、そういう場として願われているように思います。

日田組浄滿寺 渡邉 弘宣

教区報『遇我遇仏』18号