聞法の場としての儀式

2010年03月01日

 最近、お寺で法務を勤めさせていただいて、世間一般の「儀式」への理解が、その本来の意味から随分と離れてしまっているのではないかと感じることがあります。

 結論から言いますと、私達がお勤めする儀式の場とは、どこまでいっても「聞法」の場であり、今、人として生きている私達がお経や偈文の教えを聞いていく場であるという事であります。

 普段、ご門徒さんと接している時に、「法事はいつやるものでしょうか?」、「なにか必要なものはあるのでしょうか?」といった 質問をお受けする事が多いですが、お気持ちさえあればいつ行っていただいても構いませんし、儀式を執行するのに最低限必要な仏具や、場に相応しいお荘厳が されていれば、他には何も必要なものなどありません。お勤めは「聞法」という事でありますが、私が以前聞いたお話の一つにこのようなものがあります。

 まだお釈迦様が生きておられた時代、現在のように音声などを記録する機械はおろか書く物すらも無い時代であります。その時代に 説法を聞いた当時のお弟子さん達は、どうやってお釈迦様の説法を記録し、今の私達まで伝えて下さったのかと言いますと、お釈迦様がその日説かれた教えを、一言一句逃さず記憶し、その日眠りにつく前にその説法を復唱して、覚えている事を確認して眠りにつかれ、次の日の朝目覚めた時に、また昨日の説法を復唱 し、覚えている事を確認して一日が始まったそうです。そしてこれが現在にある朝・夕のお勤めの原型であるとも言われています。

 このお話でもわかるように、お勤めとは他の誰かに施すものではなく、「私」抜きには成立しないものなのだという事です。

 家族葬や直葬といった現在のニーズに合った合理的な儀式が行われはじめたのも、儀式の意味が誤解されているという一つの証明であるように思います。しかし、ここまで目立って変化が出てきた今こそ、儀式本来の意味を一度伝え直す良い機会であると私は思うのです。

大分市組妙正寺 小栗栖 大地

教区報『遇我遇仏』19号