亡き人を縁として

2010年06月01日

 本年度の教区声明講習会は、本山堂衆、鈴木友好先生よりご指導いただき、改めて葬儀を勤めることの大切さを確認させていただきました。

 最近、葬儀のあり方に疑問を感じる事があります。通夜、葬儀という形式にこだわらない告別式、御本尊中心ではなく遺影中心の葬 儀などが増えて、葬儀本来の意義が失われつつあります。真宗門徒にとって葬儀とはどのような意味を持つのか、私達は考えなければならないと思います。

 葬儀は、亡き人との最後のお別れの儀式であると同時に、人間の「死」という重い事実を受け止める大切な時と場であります。そし て、最も大切なことは、亡き人が人生の最後に身を以って教えてくださった「生あるものは必ず命終えていく」という人間の身の事実をあらたに確認し、生まれ たことの意義を自分自身のこととして受け止めていくことです。

 しかし、そのことを自分のこととして受け止められず、日々の生活を送っているのが私たちでしょう。だから、身内、身近な人の「死」をとおして、人は必ず死ぬからこそ今ある「生」を確かなものとして生きよ、という私にかけられた亡き人の願いを尋ねるのです。

 また、葬儀とは亡き人とのあらたな出遇いの始まりではないかと思います。私の祖父母は3年前に亡くなりました。時々、昔、話し ていたことを思い出したり、ご門徒さんから自分の知らないところの話を聞かせていただいたりします。今になって、その思いや願いに気づかされ、祖父母との あらたな出遇いをいただくご縁となりました。

 真宗の葬儀の根本は私たちが亡き人からの問いを聞き、そこからあらたに生きるという歩みを始めることです。大切なのは、決して 祭壇の豪華さや僧侶の数ではなく、私が亡き人を縁として何をいただくかです。今、一度「葬儀」をとおして私たちは大切な意義を見つめ直さなければならない のだと思います。

京都組善徳寺 村上 良樹

教区報『遇我遇仏』20号