お荘厳

2012年03月01日

 内陣出仕する法中をはじめ声明、立華、楽、仏具など、内陣に関わる全てが浄土の荘厳である。僧分は声明に自信があってもなくて も、行儀作法を完璧に習得していなくても座配された自分の場所に精一杯、謙虚に責任を持つべきなのであろう。それは浄土建立を誓った法蔵菩薩の願心に応え てわれわれがあり、法蔵菩薩の精神を表現する場として法要があると思うからである。一つ一つの所作、間合いが法要に緊張感を与え浄土を荘厳していく。上手 とか下手ではなく、勤める法要の意味やご本尊に向かう姿勢の問題のように思う。それは間違いなく参詣する門徒や関係者にも伝わるだろうし、その結果として 仏法讃嘆の念仏が堂内を満たすならば、そこにはじめて浄土の荘厳としての法要が円成することになるのではないだろうか。

 念仏の声が聞かれなくなったといわれて久しい。それは参詣する側の問題ではなく、法要を勤めるこちらの問題ではないだろうか。 お経には、人間が生み出す苦悩や悲惨と対比して、それらをすべて排除した完全に調和した世界として浄土が説かれている。それを模(かたど)る内陣に法中が 出仕して浄土を表現する。そこに人間の小賢しい分別は必要ない。ただ必要なのは、人間の苦悩を受け止め、しかもそれが他ならぬ自分自身が作り出しているこ とを問いかけるはたらきとしての表現である。それはいかなる自分であろうとも、さらけ出せる大地としての浄土の荘厳である。僧分の心意気一つ、至難のわざ である。

別府組浄願寺 三那三文雄

教区報『遇我遇仏』25号