真宗の本尊 後藤 立雄

2014年06月01日

 ご本尊は、日々の暮らしを楽しく過ごせない者に、情熱を持って過ごせない者に、道に迷い戸惑う者に、自信を失って立ち尽くす者に、共同体・組織の中で息詰まらせている者に、日常世界を超えた世界に触れさせ、この世間において自立して生きる根拠を与えるものです。それも私たちがそういうはたらきを探しだすのでなく、迷い続ける私をどこにいても必ず見つけ出すようにはたらき続けているはたらきをご本尊と言うのです。伝統的には「方便法身尊形」と教えられてきました。

自ら生きる時代の中で、圧倒的な既存の仏教集団と格闘し、本尊をよくあらわしてくださったのが蓮如上人のお仕事でありました。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。
当流には、木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と、いうなり。
(『御一代記聞書』)

 他流においては自力修行である観仏三昧が基本であるから「名号よりは絵像、絵像よりは木像」と木像が主とされる。しかし、当流、浄土真宗には「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」である。名号において成就する仏道。仏道の大転換を訴える蓮如上人の開教宣言ではなかったのでしょうか。

 金龍静氏は蓮如上人の本尊制定を「无碍光本尊が、本尊の主流的な地位をしめた時期は、長禄期からおよそ十年ほどの短期間だった。「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と語ったが、この頃の理念を象徴する一言である。やがて阿弥陀如来絵像が、そして寛正の法難以後は自筆の六字名号が、本尊のなかにくわわりだし、主流的地位をしめていく。本尊制定の試行錯誤の跡を告げるものといえよう。」(『蓮如』)と教えてくださっています。

 ご本尊は「授与物」と呼ばれます。同朋新聞には「御本尊は本山からお受けしましょう」というコピーが必ず出ています。皆さんどんなふうにご覧になっているのでしょう。活字は大きくなったり小さくなったりします。場所も左側だったり下だったり、ページも移動しますが、必ず登場します。このように教団組織機能の中に位置付けられ多くの人びとのものとなったご本尊は、おそらくは蓮如上人に始まるのでしょう。しかし、その前に、教団の授与物」に息吹をあたえ、生命あるものとする活動こそが教団の役割でないのかと思います。この教団の一員である私にとって「真宗の本尊を学ぶ」ということは、本願の歴史にうながされ、目をさまし、生きることを、この身において証ししていくことであり、盤石な教団体制の中に埋没している自分自身を問い続けることでなければならないと思うのです。

 私たちが蓮如上人に学ぶべきは、試行錯誤する勇気です。教区でも「真宗の本尊」という講座が展開されています。講座の概要で「本尊を見出した者には無碍の一道が与えられてくるのです」と述べられます。この場面で「無碍の一道」はどうなのでしょう。「無碍の一道」を結論にするのでなく、この時代に「無碍の一道」を獲得した歓びが、感動が語られるべきだと思います。私たちには、現実に立ち止まり、立ち尽くし試行錯誤することが求められているように思うのです。私は社会に届く言葉を吟味したいと思います。

佐伯組 宿善寺 後藤 立雄
教区報『遇我遇仏』34号