聞こう 念仏のこころ 鍜治谷 栄

2014年09月01日

 私達は同朋会運動によって、愚禿釈親鸞聖人がお書きになられた「正信念仏偈」に、ご縁を頂きながらも、正しく念仏を信じることも出来ず、迷いの生活に流されてしまう。今回このご縁を頂き、今一度聖人のお書きになられた「正信念仏偈」著作の動機の言(みこと)に尋ねてみたいと思います。

【「正信念仏偈」著作の動機】

しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰く (『真宗聖典』 203頁)

【文意】

 真実を求めつつ、その真実(まこと)の何者かを知らないゆえに、果てなくさまようた旅路の末、生ける屍となっていたわたくしたちのために、大聖世尊は真実を如来の名に示して、真生の扉を濁世におひらきくださった。この真実の言こそ、民族と時代を異にしても、苦悩の群萌を救う無上の宝である。そのことはさらに、これを身にうけて伝えられた三国の高僧の説をひらきみて、いよいよ明らかとなった。かほどに深いあわれみをこの身にかけられた深くして遠い仏のご恩を、今さらのごとくに喜ばずにおれないのである。

 このご恩に報いるために「正信念仏偈」と題し、正しくして純一な信心の智慧を、如来の名たる念仏に摂めて、愚鈍の衆生(ともがら) にめぐまれた仏と仏とのおんはからい、祖と祖との伝統のご苦労をほめ讃えて、あまねく人びとにおくりたいと思うのである。

【「正信偈」著作の動機について】

 南無阿弥陀仏ということは、どうかしたいがどうにもならぬという人間の心を破って、(それが南無ということでありましょう)どうする必要もない世界をひらく、(それが阿弥陀仏ということでありましょう)ここに人間の現実の救いが実現しているのであります。

 これは絶対現実の救い、自分に悩むものが絶対現実の一点一角も変更する必要がない救いを見出すこと、どうにもならぬ凡夫がどうする必要もない自覚をもつ。

 つまり、凡夫に仏を実現する。そのことばが南無阿弥陀仏であります。(中略)

 『大無量寿経』の「真言」とは、それを身をもって明らかにされた歴史、ここに浄土真宗があり、その歴史の中に身をおくことのできた喜び、そういう歴史の中に自分も加えられたという光栄、そのご恩に報いるために、身をもって釈尊の「真言」がまことであることを明らかにしよう、これが親鸞聖人の「正信偈」を作られた動機であります。

以上、仲野良俊『大きい字の本 正信偈講話(1)』
南無阿弥陀仏。

  如来の御名に奉える日ぐらしの不思議、「そのままのおまかせ」ご恩尊しなんまんだぶつ。

愚図釈順諦
前 教区推連協 会長 鍜治谷 栄
教区報『遇我遇仏』35号