真宗の本尊 長野 量一

2013年06月01日

 このごろ「おわたまし」を勤める機会がありました。よく「仏壇開き」といいますが、真宗では「おわたまし」というそうです。貴人を敬ってその転居をいう「わたまし(渡座) 」に敬語の「お」がついた言葉だそうです。私たちの生活のなかへ阿弥陀さまに渡り来たっていただく法要ですから、めでたいというより重い意味を感じます。

 お内仏の真上に額が掛けられてあるお宅があります。月参りのたびに仰ぎ見ます。 「見て居るぞ聞いて居るぞ知って居るぞ必ず助くるぞ」と書かれています。あるじが言うには、 こどものころ、悪さをしたり嘘をついたときはお内仏の前に座らされて反省や白状をさせられたそうです。道徳と直結させるのには違和感がありますが、阿弥陀さまの智慧と慈悲を日常のなかでいただいてきた真宗の伝統を感じます。

 「親さま」とよんで手を合わせたとき、阿弥陀さまは優しさと厳しさをもって親しいものだったでしょう。身近に阿弥陀さまをいただくことがむずかしくなった今では、阿弥陀さまの前に座る機会は少なくなったのではないでしょうか。しかも「ご先祖さまではありません」と言われれば、いよいよ遠ざかるのは自然の成り行きです。しかし戦時下では阿弥陀さまを天皇や天照大神と同一視したようですから、ただ時代の思潮に迎合しても本尊の意味はありません。時代を支配する主義や思想に合わせるのではなくて、そこで呻吟する苦しみや悲しみが希求し、そこに仰がれるものこそが本尊です。それは同時に浄土の願いの前に静かにすわることです。

 曽我量深先生は本願の三信を探求して、阿弥陀さまの因位である法蔵菩薩の意義を深く教えてくださいました。私たちの苦しみや悲しみ、その我執より深くあって、その我執を身をもって支える意識(阿頼耶識)を法蔵菩薩の願心の譬えとしました。残念なことにその譬えは人の中に純粋な菩提心があることのように誤読されました。苦しみや悲しみの底まで還り来たって目覚めるまで共苦する本願としての法蔵菩薩を阿頼耶識に譬えたのであって、阿頼耶識が法蔵菩薩であるとしたのではありませんでした。高い所から導こうとする仏さまではなく、迷いを共にしようとする因位の願心でした。

 かけ離れたことのように感じる方もいるかもしれませんが、難渋するひとの苦しみに寄り添い、支えになろうとするひとのすがたにはこころうたれます。そして共感することの困難さに悩むすがたにも尊さを感じます。自己愛に終始する私たちの生活ですが、そういう身近なできごとが本願の譬えとして尊く戴かれます。苦しみや悲しみを共にしてくださり、孤独の支えとなってくださるよりどころに手が合わされます。

田川組 正法寺 長野 量一
教区報『遇我遇仏』30号