元気なお寺づくりセミナー これからの歩み

2015年09月11日

「願い」にうながされ ーセミナーを受講してー

Seminar

 受講の動機は不純

個人的には、住職としての自身の在り方、寺院の運営に問題意識はなかった。2万円の受講料を手出ししてまで、これ以上寺を活性化したいと思わなかったし、必要も感じなかった。では何故受講したのか。

一つは、教区教化本部の調査研究室員となったことで、「教勢の著しい退潮傾向を教勢調査からどう読み解くか」というテーマを与えられ、「念仏の相続が危ぶまれている事実」を傍観する訳にはいかなくなった。

もう一つは、宗門が念仏退潮の事実を深刻に受け止めて、従来とは違う観点で本気で取り組もうとしていると感じ興味をそそられたからだ。いま思えば、受講生としては極めて不純な動機といわざるを得ない。

「セミナー」の視点

セミナーでは、「マーケティング」という視点から寺・住職の本来的在り方を考えさせられた。マーケティングとは、「相手にとって価値ある提供物を伝達(創造・配達・交換しかり)すること。では、お寺のマーケティングとは何か。寺の「相手」とは、苦悩を抱いて生きる自己(自分も含めた有縁の門徒)である。寺が提供する「価値ある提供物」とは「念仏・仏法」をおいて他にない。そこから、寺・住職の存在意義は「葬儀・法事の執行」でも「教えの販売」でもなく、「布教伝道」にあることをあらためて感じた。仏法を伝える。それは、生き方の方向・価値観を伝えることだと。

もう一つ、人が何かを求めて行動を起こす契機には、純粋な動機(願い)がはたらくということ。ただボーっと現実を見るだけでなく、自身が抱える「危機感と思い」「取り巻く環境」「無形の価値」に目を向けると、問題意識が生まれ行動する動機が生じる。

「願い」にうながされ

私に明確な問題意識が生じたのは、「無形の価値」に思いをめぐらせた時だ。現在の法蓮寺をここまで成り立たせてきた歴史、寺と念仏の教えに出あい関わってきた人々の思いが、目には見えない大きな「無形の価値」だと気づかされた。

法蓮寺は永く辺鄙な山間地に在って昔からの門徒数は60余り。50年前、老朽化した本堂と庫裏の建て替えの問題に当時の総代会は窮していた。たまたま当時祖父(老院)が所有していた街中の五百坪の隠居地(現寺地)と居宅を門徒が譲り受け、そこに寺地を移転した。旧地を売却した資金をもとに本堂を建てたのである。

まだ学生だった私は、旧地域の門徒さんから「心にポッカリ穴があいた。寺がなくなって初めてお寺の存在がよく分かった」とたびたび聞かされた。当時45才で公務員を兼職していた住職(父)は、落慶法要の2年後に公務員を辞して専修学院に学んだ。私たち兄妹はまだ大学生だった。思えば、旧地域の門徒さんの声が父には「いのちの願い」として響き、それが父を動かしたのだろう。

念仏申すほかに道なし

現代は、念仏相続の生活文化が衰退している時代である。念仏は教義として伝わったのではないと思う。人と人が互いのいのちの鼓動を直接感じあう中で相続されてきたのではないか。利便、効率、経済を優先し、人と人との情(こころ)を隔て、互いのいのちを感じ合う暇さえ与えない社会は、いよいよ生きることの孤独感、孤立感、不安感を募らせるだけである。いのちの鼓動を感じあうところにこそ「念仏せよとの如来の呼び声」が聞こえるのではないか。そこに、時代と苦悩の中に埋没する自他が見えた気がした。「念仏申す」ほかに、自分も有縁も過去・現在・未来に助かる道はない。今まさに自分は、共に念仏して平等に助かるべき道に立っていると。

この願いを、門徒一人ひとりに伝えたい。共に念仏申しましょうと。今年6月、30年ぶりに「法蓮寺旬報」を発行した。年6回の予定である。

大分組 法蓮寺住職 岩尾 豊文
教区報『遇我遇仏』39号