諸殿拝観

[本堂]

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 延享元(1744)年真勝寺騒動の結果、幕府はいったん真勝寺を召し上げた後、東本願寺に下げ渡した。これが四日市別院の起こりである。

 別院にふさわしい本堂の建立は、従如上人の消息が宝暦3(1753)年に出され、御遷仏は文政8(1825)年 と実に72年かかっている。この本堂は幕末の御許山騒動にて焼失した。

 明治6(1873)年再び本堂再建に着手、明治13年に現在の本堂は完成した。明治8年10月21日上棟の墨書が残る。

 屋根は部分的に本葺であり、用材も中古材が多いなど、長い間「仮本堂である」との伝聞も、以前の調査と今回の更なる調査で、本格的な本堂として建立されたことが判明した。

 また今回新たな墨書が発見され「宇佐神木」と銘が残されており、宇佐神宮からの木材寄進という今まで考えてもみなかった「別院と宇佐神宮の関係」が今後の課題となっている。

 爾来百有余年の歳月の中で風雪に耐えてきた本堂も、昨年の台風で大棟を中心に大被害を被った。今回大棟の応急修理を行ったが、これとて五年程度の耐用ということである。このような状況から、建物全体についての調査を行ったところ、①部分的な地盤の沈下②小屋組及び柱の曲がり、よじれ③シロアリによる腐蝕など致命的な状況が判明し、修理には根本的方法が必要であるとの指摘をいただいた。

 別院の機能、教区内での意義など多岐にわたる検討が必要である。教区全体の議論を尽くし、別院建物の今後について方向を示す時間は、待ったなし、となっている。

日田組 長善寺住職 大神信證

[山門]

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 幕末(明治元年)焼失した旧本堂(二重屋根十一間四面)にふさわしい山門として慶応元年(1865)に新たに建立され、昭和4年の大修理を経て現代にいたる。

 平成11(1999)年9月14日の台風18号によって山門に甚大な被害を受けたため、既に決定していた『四日市別院蓮如上人五百回御遠忌予算書』を急遽組み替え、山門の大修理を御遠忌の主要事業とし、山門修理費を一億四千三百万円に増額し工事が施工された。

 この山門は四日市門前町の中心に位置する東別院本堂の正面に東向きに建つ県下最大級の二階建重層門である。

 下層正面は三間三戸になり、上層は扇垂木にて、枓栱(ますがた)は詰め組とし、軒回りから下の外部に面するところには欅木に精緻な彫刻を施し、全体は禅宗様式を基調としている。

山門の見所は彫刻群にあり、下層の桟唐戸に鳳凰・貫上には雲龍の彫刻が緻密に飾られている。また桟唐戸の鏡板の牡丹紋など何度見ても見飽きない。

 上層の尾垂木・木鼻の禅宗風曲線、隅木の雲型持ち送りと、気(蜃気楼)を吐く蜃の彫刻。

 二階内部の三尊仏(釈迦如来・弥勒菩薩・阿難尊者)、脇に傅大師像が安置されている。

 当山門の建立は江戸末期であるが意匠を凝らした彫刻群は参拝者の目を楽しませ、本瓦葺きの重層屋根とともに江戸後期の山門として町並みに調和し、本格的な二重門として完成されている。

 建築年代と建築に至る経緯が明らかなことから江戸末期における九州北部の建築遺構として、宇佐地方文化史においても重要な建造物である。平成17(2005)年3月29日、『大分県指定有形文化財』の指定を受ける。

大分組 良因寺住職 手嶋祐純

[経蔵]

 別院境内の西南の隅に、三間四面の土蔵がひっそりと建っている。毎日、多くの人がその前を通りすぎていくのだが、春、桜に彩られる時をのぞけば、その建物に眼をとめる人は滅多にいない。
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 ところで、この土蔵は、経・律・論の三蔵を網羅した一切経(大蔵経)を納めている経蔵である。今もなお、昔ながらの大きな錠前で固く閉ざされており、あたかも、時の流れにさからいながら、永遠の真理を寂かに護っているかのごとき佇まいである。

 この経蔵は、曇鸞大師と同じ時期(中国・南北朝時代)に活躍した傳大士の考案になる「転輪蔵」形式の経蔵である。

 経蔵内には、土台から屋根裏に届く太い柱を軸にして回転する八角形の書架があり、そこに一切経が納められている。他宗では、この「輪蔵」を一回「転」させると、一切経を読んだと同じ功徳があると言われてきた。二千冊ちかい経典も、そっと押してみれば、今でも静かに回転する。しかし別院の記録を見ても、経蔵を開いて輪蔵を回転させた形跡はない。「専修念仏」をかかげる真宗は、それを「雑行、雑修」として退け、純粋な「経蔵」として護持してきたからであろうか。

 ところで東別院の輪蔵は、八角形の書架の正面に「釈迦如来」の立像を安置し、残りの七面に、それぞれ五段の棚を設け、格段ごとに数十冊の経典を納めている。

 また輪蔵の下部には、損傷の著しい塑像が取り巻いている。あるいは、仏法守護の天人である八部衆であったのであろうか。

 本来なら経蔵にまつられるべき傳大士は、今では、山門の二階に釈迦三尊像と並んで安置されている。いつ、誰が、どんな理由で、山門にお連れしたのであろうか。

 寛政十一(一七九九)年に経蔵が建てられてから、はや二百年。この間、経蔵は人間の織りなす様々な出来事を見て来たであろうし、これからの私たちの歩みを見続けて行くであろう。

 経蔵の朽ちかけた土壁に春の光がさしている。

宇佐組 勝福寺住職 藤谷知道

[太鼓楼]

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 慶応4年正月14日、尊皇攘夷運動の中四日市別院は「御許山騒動」によって「山門と経蔵を残して灰じんと化した」と伝えられている。文政年間に九州諸国より集められた浄財にによって建立された伽藍はことごとく消失してしまった。現存する「太鼓楼」は登記簿には面積126.5㎡、名称は第二詰所と登記されている。

 明治23年の『大分県寺院明細帖』には二間三間(6坪)と記録があり第二詰所は別に存在する。従って焼失当時の太鼓楼が明細帖に記載され規模もこの程度であったと思われる。

 さて、太鼓楼の役割と機能について考えてみる。寺院の太鼓楼で有名なものは、西本願寺にある。真宗様式と言われる特徴は櫓を屋上にあげた形式であるといわれている。現在の別院の太鼓楼もこの形式である。寺院における太鼓は「時の太鼓」と称されるように、法要の刻限を知らせるものである。別院の太鼓も法要の刻限を知らせる時の太鼓であった。六時と呼ばれる晨朝,日中,日没,初夜,中夜,後夜の六つの時刻に打ち鳴らされたものであり、また特定の法要日にはその刻限を知らせるものであったであろう。

 同時に太鼓は時刻を知らせる道具として長く用いられてきた。 時を知らせる鐘や太鼓の打ち数は、律令によって制定され、延喜式にも陰陽寮にその職がさだめられている。室町期までは時刻の呼称は十二支であったが、江戸期に入るとこれを聞こえる太鼓の数で呼ぶようになってきた。「お江戸日本橋七つ発ち」とは、七つという数字によって寅の刻つまり午前4時を指している。また午前と午後を区別するため、明け六つとか暮れ六つとか呼ばれることもおこなわれた。 法要刻限の合図に太鼓を打っている寺院はごく希になっているものと思われる。

日田組 長善寺住職 大神信證