念仏のあゆみと九州御坊

[阿弥陀信仰の足跡]「九州真宗の源流をたずねて」

平安時代(12世紀)に作られた高田の富貴寺は豊の国の代表的な阿弥陀信仰を伝えている。この寺は宇佐宮大宮司によって建立されたものといわれる。建仁2(1212)年、法然一周忌のため弟子の源智が作成した滋賀県玉桂寺の阿弥陀仏体内の交名帳にある宇佐宮関係者の名によっても、宇佐宮に阿弥陀信仰が深く根付いていたことがわかる。
さらに一遍と大友氏の関係によって大友氏に係わる阿弥陀堂を時衆が管理したことも興味深いことである。13世紀~14世紀にかけては阿弥陀信仰を示す板碑が各地に見られ、さらに各地に散見する阿弥陀堂の存在は、村々の阿弥陀信仰の広がりを伝えている。

zenbouji臼杵 善法寺

14世紀から15世紀にかけて蓮如以前の創建を伝える真宗寺院は善法寺(臼杵市)明尊寺(大野町)最乗寺(大野町)善教寺(佐伯市)等があり本尊も古く、『寺院明細帳』に示される中世末の創建よりもかなり古いことが伺える。さらに現在は本願寺末となっている寺院が、本願寺とは別の門流によって開かれて入ったことも、検証していく事が必要である。

平成16年大分県立宇佐歴史博物館において開催された「念仏の歴史展」は二豊の真宗史研究の新たな一歩を示したものとして興味深いものであった。今後村々の阿弥陀堂の点検や発見においてさらに中世阿弥陀信仰の研究が深まることを期待したい。

日田組 長善寺住職 大神信證

[二豊における本願寺の教線拡大]

『宇佐・国東の仏教教団の概況』(国東利行著)には「益永文書、水崎西光寺文書」において1500年代初頭には宇佐・豊前一帯に門徒が存在したことが確認されると指摘されている。

前回も述べたように平安時代以降阿弥陀信仰は確実にこの地にも浸透したことはさまざまな資料によって確認される。時代ごとの阿弥陀信仰は重層的に重なり、宗派を超えて影響し合っていく。それらの念仏信仰の基層が、真宗の念仏信仰を受容しやすくしただろう事は容易に理解できる。

15世紀後半から16世紀初頭に下附された方便法身尊形の裏書きから、興正寺、仏照寺等をへた教線の浸透が確認されている。私がじかに拝見したものは西派山国町教順寺、耶馬溪妙泉寺の方便法身尊像であるが年代は16世紀初頭、「仏照寺門徒□□寺」と裏書きがあった。

 下附された絵像を掛けた道場で、実如筆、証如版の御文が読み上げられている光景を想像してみたい。

nenbutsu01

nenbutsu02
日田組 長善寺住職 大神信證

[眞勝寺創建と別院への歩み 1]

四日市別院の前身眞勝寺についてはこれまで詳しく知りうることが出来なかったが、平成14年極楽寺住職国東利行氏の『豊前四日市東西別院の歴史』によってほぼ明らかになった。開基の一族である渡邊氏(東庄屋、西庄屋、市屋、萬屋)の文書を中心に創建当時からの歩みが読み解かれている。

開基渡邊氏は、元地方領主であったが中世豊前国の争乱(大内、大友氏の勢力の争い)の中で本拠の移動を余儀なくされ、戦国末には秀吉の全国統一による領主権の放棄による庄屋役、商人等への変更を余儀なくされた。

豊後においても大友氏取りつぶしによる「大友崩れ」の多くが真宗寺院の開基とされる伝承が多くある。北陸地方の「道場すなわち毛坊主」の寺成りとは別の戦国地方領主の坊主成りが多くあるのがこの地方の特色であろうか。今後の研究課題である。

本願寺末となり東西分立のさなか寺号の眞勝寺は西本願寺准如の御免であり、その後東本願寺に改派し元和9年(1623)に親鸞御影を宣如から御免されている。本願寺の分立による教線獲得の争いと地方寺院との関わり、また地域での東西末寺での改派など複雑に絡んだ動きも予測され研究の余地がある。

日田組 長善寺住職 大神信證

[眞勝寺創建と別院への歩み 2]

【眞勝寺騒動】

元文2(1737)年には、住職宗順の借金問題解決に端を発し、寺中寺院や末寺、門徒を巻き込んだ争いが起こってくる。宗順の不行跡という個人の問題は、眞勝寺の主導権を争う派閥問題となってきた。翌元文3年11月に宗順は本山より隠居を申しつけられ、寺は本山の抱寺(没収)となった。

しかし宗順は寛保3(1743)年、門徒1300戸とともに西本願寺(西派)に改派することになる。同年3月1日宗順派の面々は眞勝寺に打ち寄せ寺の明け渡しを要求する。しかし眞勝寺預かりの者たちと争論となり乱闘になったという。騒動が収束したのちには、日田代官岡田庄太夫により、西派帰参が認められ一応の決着が図られた。

しかしながら閏4月眞勝寺預かりの者たちがこの件を幕府寺社奉行(大岡越前守)に訴える事によって事態は次のように変化してゆく。宗順以下西派への改派中心者の処罰、眞勝寺の寺跡は幕府召し上げなどの処分が決定した。のちに幕府から東本願寺に下された眞勝寺は、本願寺掛所となり東本願寺四日市別院が発足することになる。

(内容の大部分は国東氏の論文によりました事を付け加えます)

日田組 長善寺住職 大神信證

[御坊としての整い]

平成十二年日田市の史料整理の中で、日田隈町の鍋屋森家文書の中から、別院の本堂に関わる文書を発見した。宇佐極楽寺の国東利之氏にお目にかけたところ、『四日市別院史』の発行に間に合い、一部内容が掲載された。また、別院大門の改修報告書にも所載されている。

幕末に焼失した本堂がいつ完成したのか。いくつかの文書から上棟は文政三(一八二〇)年、完成(遷仏)は文政八(一八二五)年と考えられる。文書と同じく日田に保存される別院本堂図(文化十四年)は重層の屋根となっている。

文書や図面が日田の旧家(江戸時代の掛屋)に残ったことはいくつかの理由がある。第一に四日市は幕府領で日田代官所支配地であった。森家文書の宛先が代官所役人となっている。また四日市村庄屋、商人と連署の日田商人は隈、豆田のそれぞれ代官所御用達の掛屋である。

第二は文書に登場する宇佐郡大工九郎兵衛と並び日田大山大工棟三郎の存在がある。大山大工は近世から近代にかけて多くの寺院の本堂を手がけた大工の集団である。図面はこの大山大工の関係で、日田に保存されたものと思われる。

他の地域にも史料の存在する可能性が十分に考えられる。

日田組 長善寺住職 大神信證

[四日市別院大門完成]

大門建立は、下毛郡西屋形村庄屋文書に慶応2年落慶法要と記録される。(『豊前四日市東西別院の歴史』165頁 国東利行)拙寺の残存文書のなかに、「四日市御坊御遠忌に付諸事手控」なる小冊がある。当時の住職が、掛役として出仕した記録である。

慶応2年3月27日に法要開始とある。御遠忌に先立ち3月18日に「御堂御遷仏並大門上三尊開眼会」とあることから、本堂の遷仏式と大門の落慶法要が行われている。御堂遷仏とは何を意味しているのであろうか。御堂の部分修理が行われたのかもしれない。御遠忌は連枝応正院が導師を勤め、内陣列役には久留米の永福寺、飛檐列役には肥後の延久寺等の筑後・肥後の寺院が、豊前・豊後の寺とともに出勤したことがわかる。まさに九州御坊の相といえよう。

二年後の慶応4年正月14日の御許山騒動にて、別院御堂は炎上し、大門、経堂、太鼓堂などを残して焼失したのである。やっとの思いで完成を見、落慶法要が終了したことを思えば、当時の人々の落胆はいかばかりであっただろうか。

現在の御堂は明治6年に再建着手、明治13年に再建され現在に至っている。当時の募財の記録などが、教区のどこかに眠っていると思うが、未だその情報はない。資料があればお教え願いたい。

日田組 長善寺住職 大神信證

[四日市別院と本願寺の支配について]

現在全国には52の別院が存在する。創立の由緒や、年代もそれぞれ違っている。時代区分で見ると、東西分派以前(本願寺の教線拡張期)と江戸初期 (教如上人による東本願寺成立と教線の拡大期)江戸中後期(後継者不在・寺地の本願寺への寄進など)明治期以降と4期に分けられる。

四日市別院は、転派騒動から発した混乱の結果、幕府召し上げののち、東本願寺に下附という経過をたどっており、時期は江戸の中後期ということになる。九州で最初の本山掛所となった。住職は井波、城端、福井、桑名別院などと同様、連枝住職(支配権は宗主)となった。大谷家は単一家族制度のもと傍系親族は各地に分散することとなる。永住権はなく次の宗主の親族に代わることが制度化するので、長くて二代で終わることになる。

血縁で遠くなっていく者を排除していくシステムと成っており、大谷家には長らく続く分家筋がないことは、大谷家家憲にも「連枝ハ弟子分中ニ属シ出デテ別格別院ヲ相続スト雖モ一家ノ関係ニ於イテハ家族ノ待遇ヲ受クベシ」とあることからもうかがい知れる。家族扱いということは、代替わりの後は宗主からは遠い存在になるということである。

日田組 長善寺住職 大神信證

(別院の歴代住職一覧を拝見してないので別院設立の原則論に立って考察しています)

[眞勝寺の事由]

天正十三(1585)年、教如九州下向のおり、寺号と木仏御免により渡辺統綱(むねつな)、統述(むねのぶ)父子は眞勝寺を開基した。元和五(1619)年次男正願が継承する。この後眞勝寺は末寺22か寺門徒五千と発展する。享保十四年の九州末寺帳には、豊前国ご一家寺院として、今井浄喜寺、四日市眞證(勝)寺の二ヶ寺が記述されている。

寛保三(1743)年幕府裁可、さらに延享元(1744)年、日田代官所四日市陣屋手代立ち会いの上東本願寺使僧法光寺は御坊格式の議を許可する申渡を受け取ったという。(四日市村年代記)

翌年延享二年に輪番徳善寺が着任し、御坊眞勝寺が誕生した。

四日市村は、中津藩領、小倉藩領、幕府領と支配者も変遷した。江戸中期以降夷社前に置いて毎月四の日の定期市が行われ、若干の商家もでき掛屋も成立したが、常設の店ができるまでの発展はなかったようである。

東西両別院の報恩講の人出は、四日市村においては年一度の大賑わいであったことを推測させる。別院報恩講に関する町屋の文書が発見されると有り難いと思っている。また別院が京都本山まいりの中継地点(宿泊)であったことも聞き伝えるが、これらの関係文書の発見にも努めたい。

日田組 長善寺住職 大神信證